ニコンD3 タムロン28-75㎜F2,8 椿山荘にて なな5歳
遊び過ぎの大学時代
3年の夏、パートリーダーの役目が終わり
肩の荷が下りた僕は
大学に行かなくなった
夕方からガソリンスタンドのバイトをし
朝方まで車を乗り回し
ウゴウゴルーガを見て寝る
夕方起きて、バイトに行く・・・
以下同文
どうしても出なければいけない授業を除いて
毎日こんな感じだった
元々トランペットが上手く吹けるわけでもないと
思っていたので
練習もほとんどしなかった
大学に行くのはしんどかったが
それでも先生になりたい!という気持ちは切れず
教職課程だけは真面目に受けていた
そして4年生
地元の高校に教育実習に行った
楽しかった
ずっとやりたかった先生という仕事に
初めて触れた瞬間だった
毎朝のホームルームに歌を歌った
最初は僕だけが歌っていたが
教育実習が終わるころには
みんな一緒に歌ってくれていた
「先生みたいな人が本当に先生になってくれればいいのに・・・」
そう言ってくれた生徒もいた
涙が出るほど嬉しかった
初めて人から認められたような気がした
やっぱりうまくいかないのよ・・・
さぼっていたツケがやってきた
4年の2月
卒業生リストの中に僕の名前は無かった
最後の最後まで苦戦した英語の授業の単位が取れず
たった一科目足りずに、僕の留年が決まった
僕はこのまま東京に残って5年生になることを望んだが
両親共に、このまま好き勝手にやられたのでは
多分来年も危ういと思ったのか
強制的に福島の実家に戻された
そこからは、一年間福島から東京まで通学した
日曜日の夜に出発し
東京でそのまま一泊
翌月曜日の一コマ目の英語の授業を受けて
福島にトンボ帰り
そして実家で火曜日から土曜日までを過ごす
学生だが、ほぼプータロー生活だった
夏に受けた教員採用試験は不合格
当時、福島の音楽教諭は飽和状態で
採用されるのは1,2名だけ
勉強も出来ないピアノも弾けない
落ちこぼれ音大生が受かるわけもなかった
そのまま何とか一年をやり過ごし
何とか無事5年で音大を卒業することが出来た
またプータロー状態で一年間を過ごすのかと
暗澹たる気持ちでいたのだが
運よく高校の常勤講師の話があり
実家を離れ、福島市の高校に務めることとなった
念願の教師デビュー
常勤講師だろうが先生は先生
僕は念願の先生になることが出来た
結構授業は適当だったけれど
一人ひとりの子どもたちと真剣に関わり
向き合ってきたと思う
一年はあっと言う間だったが
最後に生徒たちが泣きながら見送ってくれた
ちょっと自分のことを認められたかもしれない
そしてまたプータローへ
講師生活は楽しかったが教員採用試験の勉強は
まったくできなかった
というかする気もなかった
こりゃダメだと両親から実家に戻ってくるように言われ
またプータロー生活へ
また、「やっぱり、こんな僕はダメな人間だ・・・」
こう思っているうちは、何もしなくてもいい
ダメ人間だから・・・
そう言い訳をして辛く努力することから逃げ続けてきた
逃れ逃れて4回目の教員採用試験・・・
ええ、落ちましたとも・・・
こりゃ、もうダメだな・・・絶対に受からないわ・・・
あきらめたその時に
友人から電話がかかってきた
「母校の音楽ホールで働かないか!」
渡りに舟とばかりに僕はまた東京に出てきたのだった
こうして僕は、なんの因果か
母校の音楽ホールで働く
イケメンお兄さんになったのだった(自分で言う)
いやー、思ったより長くなってしまったので
明日に続く・・・(続くのかよ!)